深淵の慟哭

幸せになる方法はわからないけど、確実に不幸になる方法ならわかる。他人の人生を生きることだ。

親から無条件の愛を受けなかった。とくに、父親は愛情の表現ができなかったうえに、それほど、子供に関心がなかったのだろう。自分の人生を生きることに精一杯だったのかもしれない。父親もまた身勝手な父親のもとに生まれたから、愛など受けたこともなかったのだろう。

時代のせいもあったのかもしれないが、家族における父親の権限は絶対的なものがあり、子供は労働力ぐらいにしか思っていなかった。奴隷という表現が正しいか分からないが、単なる所有物ぐらいのものだった。

どこから始まった負のループなのかは分からない。いまの自分が色々と苦しんでいるのは、自分自身のせいではなく、この負の連鎖が問題だった。

自己実現ができていない親、つまり、自分を肯定できていない親に育てられた子供は当然、愛されることがない。

親自身が自己評価が低く、自分のことを愛せていないということは、その子供も愛されることがない。

そんな環境で育った子供は、やはり自己評価が低くなってしまう。

「おまえは、そのままの人間では価値がなく社会で生きていけないから、勉強を頑張り、品行方正にして、できればスポーツも頑張り、異性にも好かれるようになれ!ゲームばかりやるな、休むな!時間があったら、なにかためになることをしろ!社交的であれ!青春しろ!人生を謳歌しろ!」簡単に言えば、すべてを求められ、それらを完全にこなしてもまだ認めてもらえない。

親自身は、たしかに表面上はやさしく、正義感が強く、酒は飲まず、タバコは吸わず、ギャンブルもやらず、当然、女関係も真っ白だった。そんな、一見いい親に見える人間は、やはり、子供にもそれらを完璧に求めた上に、能力以上の成績や行動を求めた。

子供ながらにそんな親をすばらしいと思い、言うことを聞いたが、もとめる評価や愛は与えられなかった。終わりのない盲目的な努力だけ求められ続けるだけだった。

親の親、つまり、自分にとっての祖父も自分の意見や考えを曲げず、それを人に押し付ける人間だった。親もまた、犠牲者だった。それらのストレスは、すべて子供に押し付けられた。

そんな親は、40代でストレスに蝕まれ、まったく働けなくなっていた。鬱病だったのだと思う。もともと体も弱かったせいか、回復することはなく、64歳で亡くなるまで、社会に出て働くことはなかった。

私は、そんな自己評価が低く、エゴを抑圧し、ストレスだらけの親に育てられた。かなり、歪んだ価値観を植え付けられて生きてきた。遺伝的に能力が高ければ、その期待に応えられたのだろうが、抑圧にまみれ、祖父に認められることもなく、死ぬまで生活を頼り、自己実現できず、人生の選択を支配されてきた親は、とても子供を愛する余裕などなかったのだ。

そんな劣悪な環境の割には、愛は注げなくとも最低限の環境だけは用意してくれた事実だけは感謝する。

つまり、いま私が感じている劣等感は、幼少期から刷り込まれてきたものなのだ。気付き、理解はできても、その洗脳はかんたんに外せるものではない。

どこまで能力以上に努力すればいいのかという問題ではない。いまはこの世にいない親に認められ、愛を受けることなど不可能だし、自分を投影した子供に刷り込んだ劣等感はいくら努力して成功しても消えることはないのだ。

根拠のない劣等感は、かたちのない幽霊みたいなもので、いくら退治しようとしてもいなくなることはない。むしろ、本当は根拠もなく実在しない劣等感にとらわれ、それを失くそうとする努力はすればするほど、深みにはまり、抜け出せなくなり、一生を無限地獄のように苦しみながらさまようことになるのだ。

本当の努力とは、親から愛をもらうためにするものであってはいけないと思う。子供のころであれば、親の劣等感を和らげるための努力は役に立つかもしれない。コミュニケーションが取れず、仕事もできず、収入もなく、自己実現もできていない親を少しでも癒すために、子供が勉強ができ、優等生で、親の望む学校に入れば、一時的に親はくだらない劣等感を満たすことができる。

そして、子供は愛をあたえられなくとも、とりあえず、ご飯にありつけて、ゲームやおもちゃを買ってもらえる。方向性の間違っている努力にもメリットはある。

しかし、大人になったらどうだろう。

そんな勘違いの親に永遠に認められることのない努力は、苦しみとなり、人生が好転していかないことに気付く。そのころには、心も体もボロボロになっていて、自己実現するためのエネルギーはもう残っていない。

もう残っていないが、自分の人生を楽しくしていくための努力をしていけば、生命エネルギーは回復していくのではないかと考えている。

幼少期からやりたいことは認められず、やらせてもらえなかった。自由はなかった。親がいちいち注意しなくても勉強するようになっていたころには、ねじれた劣等感を抱えた永久機関は完成していた。それを親や一般の大人は、『優等生』と、呼んでいた。

自分たちの狭小な世界観から生まれた劣等感を子供に投影し、自分たちはなにも実行せず、やはりその親や、かってな常識的観点からの目を過剰に意識し、動けずにいた。もう、鎖につながれ餌をもらわなくても生きていけるのに。

彼らもまた、被害者だった。

断ち切らなくてはいけない。

いま、私も、決して成功しているわけではないし、毎月、支払に追われ、赤字続きだ。

でも、それは当然のことなのだろう。いまのいままで、親が文句を言わないであろう仕事をえらび、向いていないことにも必死で対応してきた。ずっと、自分に負荷をかけながら生きてきたようなものだ。苦手なことを努力して克服すれば、成功できると思っていた。でも、いまだに成功できず、心と体を壊し、家族さえも傷つけている現状が果たして、正解と言えるのだろうか?

幼少期に植え付けられた親本人の劣等感を克服するためにしてきた努力は、本当に正しいものだったのだろうか?

幼少期に愛を求めても与えられず、自己肯定感が低く、ずっと、愛を得るため人のために努力してきた。それは、本当に正しかったのだろうか?

やりたくないこと、苦手な事、あんなに勉強しろと言っていたのに、まったく勉強とは正反対の仕事についてもなんのアドバイスもなかったこと。

あの親たちの考えは、何だったのか?

きっと、勉強しろというのも、一時的で浅はかの考えからのものだったのだろう。そのために、私は青春を犠牲にしてきたというのに。親たちにとってのいい子は、子供自身の人生を犠牲にしていたことに気付いたほうがいい。気付いてもらいたい。その愚かさに。絶対に自分の人生の補填を子供にさせてはならない。できないならば、いないほうがマシだ。

しかし、そうしてしまっている親は残念ながら、そんなことにも気付けないほど幼く、精神的には子供なのだ。子供が子供を育てるから、負の連鎖は無くならないのだ。

努力のベクトルがいままでは、親の人生と同じ方向を向いていた。そして、それは決して交わることはない。

当たり前のことだが、親の人生は親自身が決着をつけるしかない。

子供には子供の人生がある。支配も、誘導もしてはいけない。親が死んだ頃に子供は気づくが、そのころにはもう手遅れだ。

おそらく、私ももう手遅れなのかもしれない。いままで気付き上げてきたものは、そんなベクトルの劣等感から苦しみながらなんとか気付き上げてきたものだ。だが、もう限界がきている。自分を苦しめ続けた努力は、限界をむかえている。もしかしたら、これから自己実現のための、自分自身の幸せのためにしていく努力は、いまあるすべてを破壊するかもしれない。

それでも、自分をこれ以上抑圧していれば、どのみち身も心も崩壊することは予想できる。

だから、自分の心に正直に生きようと思う。誰かのために生きようという言葉は、たしかに心地がいい。でも、心からそう思える人間がどれだけいるのだろう。自分さえよければいいと思っている人間は少なくない。意識では、理想を唱えているが、無意識下では、どうなのだろうか?それは、だれにも分からない。でも、自分を抑圧し、低い自己評価から他人に依存し、言いなりになる人間は、親がいなくなってもまた同じような人間を見つけ、また依存し、自分の人生を犠牲にしていくのだという。

断ち切らなくてはいけない。親や他人に自己評価を依存し、永遠に与えられることのない愛を求め、自分の心身をボロボロにしていく人生を。

いま、経済的にも心も体も疲弊し、生命エネルギーが枯渇しているのは、これらのことから原因は明確なのだ。

よくそんな状態で、ここまでやってこれたのか。不思議なくらいなのだ。本当にすごいと思う。もっと、身勝手な人間はたくさんいる。そういった人間は、もって生まれた脳の性質なのか、気質なのか、幼少期に親からの無償の愛を存分に受けることができた人間だ。

愛を求め、与えられず、甘えたいという自分の心に蓋をして抑圧してきた人間は、本当にいままでよく頑張って生きてきた。いきなりは怖いかもしれないが、本当の人生はこれからだ。

自然と今の生活が破綻するなら、それは、当然の結果なのだ。

間違った世界は、消えていい。ワールドシフト。それが、自然の流れなのだ。人間は自然には勝てない。それが、起こるということに意味はないが、当然の流れなのだ。

人間は身を任せるしかない。

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