「みんなに好かれる人間んであれ」そう洗脳されて生きてきた。

「みんなに好かれる人間んであれ」そう洗脳されて生きてきた。



「みんなに好かれる人間んであれ」そう洗脳されて生きてきた。

礼儀正しく、敵を作らず。

しかし、そんな人間は利用しやすいだけだ。

利用しやすい人間はいい。

文句は言わないし、自我が崩壊するまでおとなしく働いてくれる。

自分を犠牲にすることをいとわない。




人に好かれないと生きていけないと洗脳されている。

自分一人の力では生きていけない。

だれかの力がないと生きていけないと思い込んでいる。

ひとの顔色をうかがって、嫌われないように。




その考えがぎゃくに、自分の自由を奪い、他人につけ入るすきを与えているとも理解せずに。




あまりにも臆病。

生きていけないこと、人並みの生活が送れなくなることに過剰な恐怖をもっている。

ひとはひとを助けはしない。

利用するだけだ。

だれもが多かれ少なかれ、他人を利用している。




強いもの、頭のいいもの、権利や物質的な資産を多く持つもの、ズルいものがより多く人を利用する。




単純なことだ。

簡単な世界だ。




問題は生きることへの執着が強すぎることだ。

だから、ひとに媚びへつらってでも生き残ろうとする。

そして、逆に自分を追い込み病んでしまい、最悪の場合、自死してしまう。




滑稽だと思わないだろうか?




生きるために人に好かれようとしていたはずなのに、いつの間にかつらくなり生きていくことが嫌になってしまう。



本末転倒とはまさにこのことだ。




もういちど言おう。




生きるために生存戦略として、他人と共調しようとする。

ひとに好かれる人格を作り、努力する。

そんな努力がきつくなる。

死にたくなる。




ひとはいつかはかならず死ぬ。

しかし、現代において無謀なことさえしなければ、とつぜん死ぬことはない。

学校に行かなくても死なないし、働かなくても死なない。




そんな死ににくい社会なのに、生きていくための道具(お金や知識、学歴や社会的地位)が無いという不安のために悩み、最悪死んでいく。




人間はバカだ。




極論だが、悩み、死にたくなるぐらいなら、最初から「生きること」への過剰な執着を捨てたほうがいい。

いまを楽しく生きないことは、生きたくても生きれなかった者たちへの侮辱だ。




単純に臆病すぎる。


ひとに嫌われること。

罵声を浴びせられること。

非難されること。

嫌がらせを受けること。

自分が自分らしく生を全うし、謳歌し、楽しむことができなかったら潔く死ねばいい。


そのくらいの気持ちでいたほうが、むしろ、精神的には健康と言えるのではないか?




思うままに生きることは、確かにトラブルを招くかもしれない。

ひととケンカになったり、誰かを傷つけるかもしれない。



いま自分の人生が楽しくなく、生きていることがつらく、死にたいかもしれない。

自分らしく生きて死ぬのか?

ひとに嫌われないように、模範的に生きて死ぬのか?

どちらが正しいとかいう話がしたいわけじゃない。




いま生きていることがつらいなら、さいごの5分間だけでもありのままの感情を出して、この世で表現してほしい。




生きるということは、ただ存在することだけでも素晴らしいことだ。

目で見て、音を聞いて、世界を感じる。

その瞬間を感じることができただけでも生まれてきた意味はある。

長く生きても、その命に感謝できないひとも大勢いる。




命は、その瞬間を感じられることに価値がある。

これは、意識しないと難しいことだ。

ストレスが大きい時は、なかなかその考えにいたらない。


ひとりでもいきていける



あるがままに生きたらだれも寄ってこない自信がある。

ひとりで生きていくことが、いちばんの社会奉仕なのかもしれない。



嫌な顔をされながらいっしょにいるぐらいなら、ひとりにしてくれとおもう。



そして、じぶんのままで生きて、じぶんのままで死ねればいいとおもっている。

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