『人生に期待するな』 北野武 感想文

タイトルが、最近自分が思っていたこととリンクしたので、どうしても読みたくて本屋に赴いた。

一般的には受け入れがたいタイトルだが、人生の苦渋を現在進行で感じている人には、薬になるかもしれない。

本質は変わらない

最近では、ChatGPTをはじめとする様々な技術が台頭し始めている。

たしかに、便利だ。

でも、まだ、人間の創造性には追い付かないし、おかしなところもたくさんある。

画像生成AIや動画生成AIなども、出てきているが、やはり似たような感じだ。

一昔前の技術、インターネット、SNS、などを利用したマッチングアプリについても書かれていたが、まさに本質をついていた。

要は、どんな技術も人間の本能を満たすための道具にすぎないということだ。

人間の本能なんて、『人類は、7万年前に脳の前頭前野の発達を遅らせる突然変異によって想像力を得た。』と、言われいるが、ほかの動物と大して変わらないことを鑑みれば、もっと太古から生命の本質なんて変わらない。

生命の3大欲求なんて、大差なく生命体であればこれに尽きる。

そして、人間も突き詰めていけば、このために生きているだけだ。

そんな欲求を満たすためにどんなに恰好のいい技術でカモフラージュしても、それらの本質は変わらないし、無くすことはできないのだ。

0か1ではない

ChatGPTをはじめとする

AIは、膨大な情報のなかから、正解か間違いかを選出する。

しかし、人間が生きているのは、0と1だけでは、表すことのできない物理世界。

いまだに、生演奏を完全にデジタル化することはできないし、その空間の空気や匂い、気圧によって生じる音の変化などは表現できない。

映像でいったら、もっとたくさんの要素があるだろう。

たとえ、AIが人間のように振舞おうとしても、絶対に人間のような複雑なふるまいができないのと同じだろう。

それだけ、デジタルと現実の物理法則には、大きな乖離がある。

それだけ、現実世界は、高度なプログラミングやCPUやGPUをもってしても足元にも及ばない。

それだけ、本当の人間とこの世界には、莫大な価値があるのだ。

安全な檻

日本は、経済的に落ち目でありながらも国民の一定数は、その残り少ない上澄みをすすっている。

そいつらは、自分たちに都合のいい常識や倫理を押し付けて、大多数の国民を管理しやすいように「常識、安全、安定」というものを作り洗脳している。

人間はおかしい。

おかしいけど、それが人間で、自分自身もその人間という生き物の在り方からは、死なない限り逃れることはできない。

今、自分を苦しめているのは、72億人のうちの1万人の支配者層なのに、人間は身近な人間に敵意を向ける。

隣の家の方が大きいとか、あいつのほうがいい車に乗ってるだとか、友達のダンナのほうが収入がいいだとか。

身近な人間のわずかな優劣に全意識を向け、敵意を持ち、逆に、劣等感を持ち、絶望したりする。

それで、一部の支配者層に敵意が向かないようにしている。

人間は、自分よりも下の人間がいることで満足する。

それが、人間の本質だ。

家も車も時計も、細分化して、序列をつくれば、少しでも、自分の方がいい立場にあるという優劣感に浸れる。

本質など関係ない。

人よりも自分の方が優れていて、良いものをたくさん持っている、利用しているということが重要なのだ。

北野武の文章は、我々世代には染みやすい。

貧しい人間が、誰から見ても貧しかった時代。

それでも、裕福か貧しいかという評価軸以外に、人としてどうかという基準がまだ生きていた時代。

人様を貶めてまで稼ぐことが良しとされていない時代。

人々は、日々の生活に追われるあまり、人間としての在り方を完全に見失っている。

貧富以外の評価基準が、まだ、しっかり存在していた時代の人間の言葉は心地いいのだ。

北野武の母親は、本当の意味で頭の良い人間だったのだと思う。

本のなかで、『武士は食わねど高楊枝』という、文言についての説明があるが、その意味の本質を的確に子供である北野武に説明しているのだ。

貧富を越えた軸が、心がまえがその人間にあるかどうかの問題なのだから。

ただ、この世は、くだらない。人生もくだらない。なぜなら、最後には、みんな死に、何も残らないからだ。

宇宙さえも終わりを迎える。

すべては無に帰す。

それなのに、ひとは目先の不安に怯え、明日の心配ばかりしている。どうせ死ぬのに。

目の前のことにイライラしたり、狭小な世界の出来事に押しつぶされている。

馬鹿か?

人生がどう転ぼうとも、すべては無意味だ。

一瞬の悲しみ、喜びに一喜一憂して自ら詩を選んだり、一晩中思い悩む。

馬鹿か?

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