現実は連続性で成り立っている

「お金持ちになりたければ、お金持ちと同じ行動をしろ。」というのは、あながち間違いではない。

多くの人間は関連性、連続性のある現実をとらえる。

知識や能力の問題さえも、現在の延長上にある。

つまり、かんたんに言うと、いきなり、かけ離れた現実を受け入れることはできないということだ。

宇宙が無限ならば、時間も無限である。

無限ということは、すべての可能性が存在していることになり、過去も未来も観測者次第で体験することも理論上は不可能ではない。

この宇宙は、どんな可能性も含んでいることになる。

それなのに、私たちはごく一部の非常にせまい現実を世界のすべてだと思い込んで生きている。

要は、観測をせまい範囲に限った方が脳への負荷が少なくて済むし、生存確率も上がるからだ。

たしかに、私たちが人間という生命体である以上、どんな現実を迎え入れても完全に不安がなくなるわけではない。

幸せを感じたり悩みを軽くしたりするのは、現実の要因だけではなく、自分のとらえ方、解釈の仕方、考え方によるところも大きいからだ。

しかし、現実があまりにもひどい場合は、それを変える必要がある。

先にも書いたように、この現実を生きる以上、急激な変更は脳が理解できなくなり、思考が破綻してしまう。

あくまで、自然に連続性が必要になる。

だから、自分でこうしたら現実が変わるかもしれないという、信念や考えをもって行動していくしかない。

うまくいかなかったことから意味を考える

外的動機付けの部分が大きいまま大人になってしまったアダルトチルドレン。

自分の欲求を押し殺し、たった一つしかない自分の人生の貴重な時間を自分以外のだれかのために生きてしまった。

みんながそうであるわけではないし、もしかすると、そういう人のほうが少数なのかもしれない。

少なくとも敏感すぎる自分は他人の反応や顔色ばかりうかがって生きてきてしまった。

その時はその方が楽だったのかもしれなし、単純に自分が弱かっただけなのかもしれない。

しかし、若く、そのまわりの希望に答えられるエネルギーがあるうちはなんの問題もないのだが、年老いてその期待に応えられるだけの力がなくなってくると途端に生きること自体がくるしくなってくる。

誰かの求めることに答えられなくなってくる。

もう、だれかの期待に応えながら生きるエネルギーは残っていないのだ。

極論、自分が活きるために生きて、まわりにいた人間が離れていくのなら、それも仕方のないことだと思っている。

自分を押し殺して、外的動機付けに比重をおいてきた。

その生き方は、もうそろそろ限界がきている。

我慢し続けたまま、だれかの人生のためには生きられない。

それは、意思の問題ということではなく、精神的、肉体的な限界がきているということなのだ。

親の期待に応えるため、自分の内的動機付けを無視してきた代償は大きかった。

自分の潜在意識を押し殺してきた人生は、まもなく限界をむかえるだろう。

今ある現実はすべて、望まなかった現実なのだろう。

なまじ我慢してしまったがために、周囲への影響はおおきい。

しかし、自分の精神と肉体が破綻すれば、同じことだ。

結局、現実は決められた道をたどる。

唯一の今までの人生の敗因をあげるなら、自分以外のまわりの人間の意見を聞きすぎたことだろう。

まわりに流されたことで、短期的には楽だったかもしれないが、結果として、取り返しのつかないことになってしまった。

もう遅いかもしれないが、これからは、自分の内なる声を大切にして生きたい。

内的動機付けを意識して生きていきたい。

それで、どうなったとしても、いまの人生よりは後悔しないだろう。

 

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