自分のやりたいことの点がだんだんとつながり始めている。それが分かる。
自分の命を活かすために本気で生きていると、苦しんできた点と点がつながり始める。
批判されても、なんの役にも立たないと言われても、それでもやらずにはいられなかったことは、少しづつ化学反応というか点どうしがリンクしていく。
こどもの頃から、興味があったことや、楽しかったこと、本当にやりたかったことは、自然と形を成していく。
自分を認めるのには時間がかかるかもしれない。誰からも認められず、孤独になるかもしれないし、なんの結果にも結び付かないかもしれない。
それでも、情熱が冷めないのなら仕方ない。どうせ、最後は死んでしまうんだ。
命の限り、できるだけ、情熱を燃やし続けなくて後悔するだろう。
とても簡単にひとを気付つけてくる人間がいる。
でも、それでいいんだろう。否定されることに意味があるのかもしれない。
それでも、その目を盗んででもやってしまうことこそ、本当に情熱を燃やせることなのだろう。
命が求めていることは、どんな障害があっても、やってしまうことだ。
それをやりつづけて死ねることが人生の答えなんじゃないかと思う。
そんな無責任なことをしていたら、いろいろ言ってくる人間は大勢いるだろう。
でも、夫婦ですら、かんたんに分かれるし、いつ、自分と関係なくなるか分からない。
そんな他人の言うことを聞くよりも、自分のこころ、自分の命のために生きたほうが後悔は少ないんじゃないかと思う。
バランスは必要かもしれない。
だけど、すべてを我慢してやりたいことも全くできずに死んでいく人生には何の意味もないと思う。
誰かの幸せのため、家族のため、子供のため。
そうやって、我慢して、無理して生きても、最後は文句言われて死んでいくだけ。
どうせ、文句言われて、非難されるなら、自分の命を燃やした方がいいんじゃないか?
ぎゃくに、自分を殺して卑屈になっていくより、自分のやりたいことで、いきいきして人生を謳歌するほうが、まわりの人間のためにもなるんじゃないか?
本当はとうの昔に完結していた
もうすでにすべてを得ていた。
それなのに、時間は進んでいった。
じつは、幸せは、その瞬間がずっと続けばいいだけのことなのに、そうはならない。
多くの場合、幸せは過ぎ去る。
ただ、あの瞬間があの時間がずっと続けば、人生はそれで完結していた。
それなのに、人間は望んでいなくてもより多くのモノを求めていく。
すべては経験だ。
そして、多くのモノを見て経験して、結局、あの時点で人生の幸福は完結していたと理解する。
人生は、そのすでにある幸せをできるだけ長い時間持続するために、生きているのかもしれない。
もう一度だけ、あの時間を経験できるなら、生きていく意味はあるのかもしれない。
すでにもっていたものを、失ってはじめてその尊さに気が付く。
この世界を経験して、感じて、最後には「死」をもって、完結していく。
命ある限りは、それでいい。
ただ、それまでは世界を存分に経験しよう。
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