実学と虚学

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物心ついたときからずっと探している。自分の生き方を。退屈なことはやりたくない。自分で意味がないと思うこと、楽しいと思えないことはやりたくなかった。大人に注意されるのが嫌で、勉強だけは頑張った。何も言われなくなるし、うまくやれば、好きなゲームを買ってもらえたからだ。結果的には勉強をがんばることが、一番生きやすかったのかもしれない。

つい最近「実学」というものを聞いた。どうやら、自分たちが一生懸命義務教育で学んだことは「虚学」というらしい。医学や薬学、工学や情報科学などは実学で、数学、文学など、実際に社会や人の生活に直接役に立たないのもを虚学というらしい。

たしかに、いくら歴史上の偉人たちの名前を憶えても、生活の役には立たない。それだけで、お金が稼げるわけではないからだ。数学の複雑な公式をおぼえたところで、解けるのはせいぜい答えが用意されているテストの問題ぐらいだ。これから解決するべき温暖化や食糧問題、人種差別などの社会問題を解ける公式などない。

もちろん、最低限の虚学は必要だろう。文字が読み書きできなければ、そもそも考えることすらできない。簡単な計算ぐらいはできたほうが、問題の分析の役には立つかもしれない。

虚学ももちろん必要だ。ただ、それだけをいつまでも勉強していても意味がない。すべての学びは、机上で終わりにしてはならない。その後、実学を通して、最終的には人の助け、しいては、人間以外の生命や地球環境のために役立てられて初めて意味を持つ。

学問の意味は、学問そのものにはない。テストでいい点数を取ることが目的ではない。それらの学びをいかに社会や地球環境などの役にたてるかということが目的なのだ。

数学があったから、物理法則が研究できた。物理学のおかげで、電機化学が研究できた。そのおかげで、生活が便利になる家電がたくさんできた。医学も薬学も同様だ。

多くの人々が貴重な自分の人生を費やして、多くの人々の役に立つ物やサービスを生み出してきたのだ。これは、とてもすごいことだと思う。人間のすごいところのひとつだ。

どんな学問も最終的には現実に良い影響を与えるのもであるべきだ。というより、現実をより良い方向に導くために学問はある。学問の目的は社会のためにあるのだ。

何かを学ぶことの目的は、現実においてよいなにかを生み出すことなのだ。現実に影響を与えられないまま終わってしまう学びはただの自己満足に過ぎない。

国家・法人もまた無常であるということ

なぜ学ぶのかという質問の答えがあるとしたら、ひとつには「大きな船も沈まないわけではない」ということだ。

自分の寿命よりもはるかに長く続くものに人は安心感を持つ。国しかり、大企業しかり、人間は一人ではとてもはかなく弱い生き物だから、群れを成したり、組織を作った方が生存率と効率が上がる。

国家さえも、他国から攻め入られるという危機を常に抱えながら存在している。ただ、あまりにも大きいために実感が湧かないかもしれないが、日本のように資源も領地も人口も少ない国は、いつ近隣の敵対国に攻め込まれてもおかしくないのだ。

しかし、どこまで大きくなろうとも、それらを構成している最小単位は結局は人間である。

組織が大きくなれば、同時にそこにいる人間の安心感も強くなっていく。

安心感を求めて大きい組織を作ったはずが、今度は、その安心感が崩壊へのトリガーとなってしまう場合も少なくない。

危機感は辛いものだ。できれば、不安など払拭したい。しかし、生きている限り絶対的な安心など存在しない。

どんなにお金があっても、家のセキュリティ―を強化しても、大切な人を守り切れるとは限らない。

どんなに健康に気を付けても、絶対に病気にならないということはない。

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