足してダメなら引いてみろ!!

物や情報があふれかえる現代。

何かをしようと思えば、物やサービスが安価に手に入る。

そこには、本当に便利で私たちの生活を助けてくれるものもあれば、じつは、悪影響を与えているものも少なくない。

とくに近年では、ポジショントークやステマ(ステルスマーケティング)といった、分かりにくいものが、より巧妙に仕掛けられている。

物をいくら買っても満たされなかったり、心地よいサービスにはまりすぎてしまったり、意識が高すぎるがゆえに情報を得すぎてしまったり・・・

インターネットが台頭してきた2000年初頭、世間一般では、『情報の取捨選択』が叫ばれてきた。

それも、情報がお金になるとわかると、企業や個人がこぞって情報を発信し始めた。

気が付けば、インターネット上には正しい情報からデタラメな情報まで混在するようになっていった。

そして、2020年現在。

通信技術の驚異的な発達によって、動画やSNSの情報量は莫大になった。

気が付けば、スマホを開いて何かしらの情報を得て、脳で処理している状態が続いている。

脳疲労が蓄積して、著しくパフォーマンスを落としていることは間違いない。

足してダメなら引いてみろ!!

ドーパミン的な成功をもとめている場合、自分に足りないものを探してそれを補おうとする。

学力が足りない、知識が足りない、お金が足りない、など、足りないから成功できないという前提のもとにそれらを得ようとする。

そして、資格など、あらゆる武器をそろえてから、成功に向けて努力していこうとする。

転ばぬ先のつえ、リスク回避といえば聞こえはいいかもしれない。

たしかに、学校では、テスト前にはその準備をする。

スポーツでも当然、過酷なトレーニングをこなしたものが栄光を手にする。

つまり、足りないものを加算していけば、成功できるというワケだ。

これ自体、一見なんの間違いもないように思える。

とくに、子供、学生のうちは、親が監督し、塾や、家庭教師、自宅での学習まで、とにかく勉強やトレーニングにリソースを全振りできる。

しかし、大人になるとそうはいかない。

たしかに、強靭な精神力をもっていれば、一人でもこなせるだろう。

ところが、筋トレのトレーナーや上司、先輩、監督、コーチなど、メンターと呼ばれる存在がなければ、ひとは成果を残せない。

それどころか、過酷な環境の中で孤独が続くと、精神を病む。

しかも、社会に出て、ドーパミン的成功を手に入れようとすると、どうしても、孤独になりやすいため、見当違いな努力を続けかねない。

なまじ学校教育で忍耐力が付いてしまっていると、ある程度のことは我慢できてしまうので、結果が出ないのに同じ努力を続け、いずれ、精神を病み終わってしまう。

これは、起業家もサラリーマンも同じだ。

むしろ、成功したいと努力している人には全員当てはまるのではないか?

真面目に、ストイックにできてしまう人ほど、求めている成功から遠ざかってしまう。

どんどん、やることを増やしてもそのこと自体に安心を求めるようになる。

つまり、成果につながらない努力によって、安心を得てしまっているのだ。

まるで苦行を行う修行僧のようになってしまう。

努力依存症といっても過言ではない。

残酷なことを言うようだが、間違ったマインドセットで、間違った努力をしていると、いつまでたっても幸せを感じられないのは当たり前のことなのだ。

間違ったマインドセット

その一つに、自分にはなにか『たりない』から、不幸なんだという間違ったマインドセットがある。

まず第一に、あなたは不幸でもなければ、恵まれていないワケでもないということだ。

この美しい世界に生を受けたことだけでも恵まれたことだ。

たしかに、この世界を美しいと感じられない人もいるかもしれない。

でも、大前提としてほとんどの人は、祝福されて生まれてきて、愛を受けて今まで生きてきている。

それだけでも、すごく恵まれたことだし、ある意味、それだけでも命の意味は完結しているのだ。

今後、どのようになろうともそれは自然の意思なのだ。

もう十分なのだ。

自分は、十分に満たされているということを大前提にしないと、どんなに努力しても、仮に成功したとしても、間違ったマインドセットになってしまう。

自分が何かしらの行動を起こすとき、大前提として、まず、すべてに感謝し、満たされている自分に感謝し、その恩恵をもって、『どうやったら人類や自然、宇宙といったこの世界のすべてに還元できるか?』というマインドセットが根底になくてはならない。

あなたには、なにも足りないものはなくて、すべてを内包している。

そのエネルギーは、とくに意識をしなくても大きな流れに合流するのだ。

それが、自然であり、使命であり、すべてなのだ。

しかし、『たりない』という感情から始まると何事も行き詰ってしまう。

たりないからお金を稼ぐ。

たりないから愛が欲しい。

たりないから楽しくない。

たりないから幸せじゃない。

だから、努力しよう。

そうではないのだ。

自分は、もうすでに、すべてを内包しているから、それを恩返ししようというマインドセットが必要だ。

いままでの間違ったマインドセットで頑張ってきた場合、急にすべてを変えることはむずかしいかもしれない。

でも、表面的に足りないものを得るために、努力してきたことも無駄ではない。

やってみて、失敗して、結果が出なくて、ここにたどり着いたのだから。

たりないマインドセットで、成功して、表面的な欲を満たす人もいる。

ただ、あなたは、たりないマインドセットでは何も得られず、むしろ、行き詰っている。

それが現実だ。

だから、変えればいいだけ。

本来の潜在意識の中にある本当のマインドに気付くだけでいいのだから。

すべてを内包して、この世界に生まれ落ちたあなたは、ただ、大きな流れを感じ身をゆだねるだけ。

まわりの表面的な事象に惑わされずに、ただ、本流に乗るだけ。

根底のマインドセットだけ間違えなければ、むずかしいことなど何もないのだ。

成功するため?身軽になろう!!

断捨離とか、ミニマリズムとか、言葉はいろいろあるけど、物を捨てることよりも、やることを減らすことのほうが大切だ。

働いたら負けとまでは言わない。

でも、『お金を稼ぎたい』というだけのマインドセットだけで働いてもしょうがない。

というか、いつまでも、満たされないままの負のループに陥ってしまう。

この世界は簡単にお金を稼ぐことができるようになっている。

そう、もし、お金を稼ぐことがむずかしかったら、多くの人は、食べ物も買えないし、住む場所や、車、着るものさえも手に入らない。

だから、ある程度、自分の時間を提供することで、簡単に賃金としてのお金を得ることができるようになっている。

そう、そういう社会を先人たちが作ってくれたからだ。

特別な才能がなくても、膨大な労力や時間を費やさなくても、ある程度のお金は得ることができる。

とてもありがたいことだ。

会社があり、工場があり、店舗など働いて、決まった時間だけ拘束されれば、自動的にお金を得られる。

社会に特別な価値を提供しなくても、お金が稼げるのだ。

なんて、恵まれた世界なのだろうか。

しかし、そのせいで誰もがお金を稼ごうとしたら、自分の時間を切り売りして、お金を稼ごうとしてしまう。

べつに、そのこと自体が、悪いわけではない。

でも、簡単にお金を得ることができるがゆえに、マインドセットが間違っていた場合、無駄な努力をし続けることになってしまう。

その仕事をとおして、社会、つまり、この世界に、自分の時間という限られた命を活かしているか?ということだ。

働くこと自体、社会のためになっていそうだが、ほとんどの人は仕事をつらいと感じている。

本来、仕事とは使命なので、むしろイキイキさせてくれるのだ。

生きるためにお金を稼ぐことを否定はしない。

しかし、それも行き過ぎてしまうと、いつまでも生きていくため以上のお金を得ることはできないだろう。

社会に持続的に価値を提供できない人が、ただ、生きていくためだけに必要なだけのお金を稼ぐだけなら、安定的に賃金をもらえる仕事がいいと思う。

しかし、安心や、安定は、同時に自由を奪われてしまう。

自由を求めるにしても、安定を求めるにしても覚悟は必要だということだ。

がんばろうとか、成功しようとか、真面目で、強欲な人ほど、この社会の歯車に利用されやすい。

欲は悪いことではない。

この世界は単純といえば単純で、それなのに思い通りにはならない。

求めすぎると、逆に得られないことも多々ある。

自由に人生を楽しむ時間を得るために、自分の限られた時間を犠牲にして働く。

たしかに、ある程度のお金がなければ、やりたいことやそれに必要なものは買えない。

しかし、ムリをしすぎると、本末転倒になる。

つまり、なんでも、ある程度にしておかないと、身動きが取れなくなって、どんどん自分を追い込んでしまう。

そのころには、自由な時間は無くなり、気が付けば人生の喜びを享受する時間やこころの余裕がなくなっているのだ。

ただ、真面目に言われたことや、成功事例をまねすることは本当に正しいのだろうか?

愚直は美徳なのか?

ひとつだけいえることは、今やっている仕事の結果を変えずに、自分の時間やリソースを空けられるようにしたほうがいいということだ。

このように書くと、怠けても稼げればいいととらえられそうだが、ある意味、正しい。

人類は、これまでの文明の進化の過程で、どれだけ楽できるかということを考えてきた。

楽できるかということは、効率よく、つまり、命という限られた時間をどう効率よく使うかということだ。

もし、人の命が永遠なら、どんなに効率が悪くても、愚直に物を作り、売っていけば、お金はたまるだろう。

しかし、人には、せいぜい、100年しか時間がない。

もっと言えば、20歳ごろから働いて、60歳で定年を迎えたとしても、40年しか稼げない。

もっと言えば、おそらく、本当に生産性が高いのは、30~50歳までの20年ぐらいかもしれない。

何か一つのことを愚直に追及することも素晴らしい人生だと思う。

だとすれば、なるべく、自分の時間やリソースの最適化を行い、より多くのことをできるようにすることも素晴らしい人生だと思う。

大変なことを「大変だ。疲れた。先が見えない。」と、愚痴を言いながら仕事をしていくのと、どんどん、効率化して、自分の時間を空け、さらに、いろんな仕事をしていくこと。

どちらも間違いではないが、どちらになりたいかは明確だろう。

まとめ

愚直な努力を否定するつもりはない。

しかし、その先に見えているものが、希望なのか絶望なのか大きな問題だ。

つらい努力をずっと続けるのか?

それとも、それを効率化することに努力するのか?

よくビジネスの考え方に出されるのが、水をくむ話だ。

毎日、遠くの水くみ場まで、一日のほとんど時間をつかい、生活に必要な水を汲みに行くのか?

それとも、水くみ場から家まで水路をつくることに時間と労力を使うのか?

たとえは、極端化もしれないが、我々も、近いことをしている。

一日の水ではないが、一か月分の給料を得るために、人生のほとんどの時間を使い、仕事をしている。

もちろん、素晴らしいことだし、苦労して、汗水流して得たお金に家族も喜んでくれる。

しかし、それは毎日水をくむことと同じだ。

同じだけの給料を短い時間で稼ぐことができれば、家事を手伝ったり、子供たちとの時間をより過ごせる。

何度も言ってしまうが、愚直な努力がいけないわけではない。

しかし、それだけでは、得られないものも存在することも事実だ。

もっと社会が自動化し、人間が人生のほとんどの時間を費やさなくても、生きていける社会を目指すべきだ。

よく、仕事がなくなるとか、お金が稼げなくなるという人もいるが、そんなことはない。

まだまだ、人類には、この世界をよりよくしていくという課題がある。

それも山積みだ。

そういった課題をより早く解決できるように、今の仕事をどんどん効率化していく必要がある。

もし、本当に、人類が、やるべき仕事がなくなるとしたら、それは、創造主となる時だとおもう。

しかし、それはまだまだ先の話だ。

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