自分が自己啓発本を読まなくなった理由

いっとき自分は自己啓発本にはまったことがあった。

今でも目に付くタイトルが並んでいると読みたいと思うが、 買うまでには至らない。

自己啓発本は鮮度が命だ。

今の社会情勢に合わせた考え方や理論が大きく影響する。

そしてどんどんと新しい考え方が生まれてくるので結構早い頻度で上書きしていかないと不安になってくる。

そうやって自分の頭の中をリライトしながら更新していくと、本当に重要な考え方だけが残ってくる。

以前、人間の記憶について書いた記事とも関係してくるのだが、本を読んだ直後の気持ちと時間が経ってしまってからの気持ちではかなり鮮度に違いが出てくる。

価値とは何なのか
等価交換 人生とは時間であり、時間とは限られたものである。 だから生物は、遺伝子という素晴らしい発明をした。 子孫を残すことにより身体の構成情報を、革命的に改善する方法を得たのだ。 環境に順応するために、二つの個体がより適応した構成情報を参...

発奮材料としての効果が薄れてくるのだ。

もちろん読んだ直後は自分がこれから凄い人間に混ぜるような気がしてモチベーションが上がってくる。

しかしそれは本に書いてあることを一つ一つ実践していて長い期間をかけてやっと得られる効果がほとんどなのだ。

最初のうちは本で得た知識を意識しながら行動しているが、次第に人間というものはモチベーションが下がってきて、しかも内容を忘れていく。

結果、本に書いてあるような素晴らしい人間になる前に本を読む前の状態に戻ってしまうのだ。

 

あくまでこれは自分に限ったことだと書いておこう。

きっと皆さんはそんなことはないと思う。

本に書いてある重要な部分を箇条書きにして壁などに張り、毎日それを見ながら忘れないように行動に移していることと思う。

自分の場合はたとえ箇条書きにしたとしても、本を読んだ直後のような新鮮さと熱は失われているので、ただの言葉の羅列か標語ぐらいにしか捉えられなくなっている。

 

最近の自己啓発本は書き方も工夫してあるので、徐々に自分のモチベーションが操作されたかのように上がっていくのがよくわかる。

つまりは本をある程度一気に読むことによって本当の効果が発揮されるようになっているのかもしれない。

後から自分の言葉で書いた箇条書きを読んだだけではその効果は得られないのである。

賛否両論あるだろうが、自己啓発本とは瞬間的に力をもらえる栄養ドリンクのようなものなのかもしれない。

少なくとも自分はそう感じた。

 

実はこの考え方に至るのも自己啓発本のタイトルからなのだが、要するに本の種類によってえられる効果というのは変わってくるということだ。

前途したように、自己啓発本は自分にとっては瞬間的なモチベーションのアップを図るだけに止まってしまっていた。

理想としてはひとつの本に書いてあることの3倍のことを考え自分なりの理論を用いて読解して行くことによってより多くのものを得ることができるのだと思う。

自分の読み方がいけなかったのかもしれないが、せっかく本に投資するのであれば何か自分の好きになるものを読みたいと思ってしまったのだ。

 

つまり、精神的な姿勢をいくら身につけようとしても人それぞれ環境も考え方も違うし、必要となるスキルも変わってくる。

精神論というのはあまりにも広範囲に書いてあって、なかなか自分の生活に落とし込むのは難しい。

であれば逆算して今の自分の生活にどんなスキルが必要なのかを考え、それを身につけられるような本に投資していくことが重要だと感じたのである。

 

self-help book という英語訳

どうやら自己啓発本というものを英語に訳すと self-help book ということになるらしい。

 

直訳すれば、自分自身を助ける本ということだ。

 

意味的にはどんな風にも取れるが、おそらく助けられるのは自分自身だけなのだろう。

 

というのは本当に自己実現したければ、何か人を助けること、役に立つ事をしなければ実現しえない。

 

あくまで救えるのが自分自身だけなのであれば、そこで終わってしまっては単なる自己満足で終わってしまうのだ。

 

決して、自己啓発本が意味のないものだといいたいわけではない。

 

誰かを助けること、誰かの役に立つことを成すには、 まず第一に自分自身がしっかりとしていなければいけない。

 

人間誰しも生きていれば辛いことや壁にぶち当たり、くじけそうになる。

 

そんな時に自分自身を助けてくれる本というのは必要だ。

 

この役割をしてくれるのが、メンターである人もいれば友人や家族である人もいる。

 

遊びや趣味の中にそれを見つける人も少なくはないだろう。

 

しかし人間はそこだけに頼ってしまっては、いずれ依存することになりそれがなくては生きていけなくなってしまう。

 

そうなってしまっては逆に周りに迷惑がかかるし、とても人を助けることなどできない。

 

つまりどんな言葉でも同じことが言えるが、心地よくなれるものに依存してしまうと、 他のことに手がつけられなくなってしまうのが恐ろしいのだ。

 

そう考えるようになってから自分はしばらく昔から興味があったパソコンやインターネットプログラミングなどのスキルを身につけたいと思い本を読み漁った。

 

来る日も来る日も空いた時間を見つけては本を読みながらパソコンに向い、実践的な知識を身につけたいと思っていた。

 

最近の流行りもあってプログラミングに関する本はたくさん出ていたし、ネットで検索すれば様々な情報が溢れかえっていた。

 

特に後半学んでいたのは、フロントサイドの   html 5 や css 、javascript である。

サーバサイド言語も勉強しようとしたが、開発環境の構築に時間がかかってしまい実践的な部分を学ぼうとした時には興味が薄れてしまっていた。

サーバサイドの方はとても複雑で、素人が手を出してすぐに習得できるはずもなく、仕事として行っているエンジニアがとてもすごい人たちなのだということがわかった。

その後はプログラミングで組んだものが黙認できる方が習得しやすいと思い、ゲーム開発環境である unity などを使い、c# を少々勉強した。

 

こうしていくうちにある程度の知識を身についていくのだが、結局のところ実用的な何かが作れるようになるわけではない。

一つの成果物をあげることはできたが、とても今の時代に見合うものではなく10年ぐらい前に誰かが作ったようなものに成り下がってしまった。

 

つまり自己啓発本を経て、 実用的なスキルを身につけた方が効率的だと思い勉強してみたが、結局自分の中の知識量が増えただけで、実際に役に立つものを作るには膨大な時間を要するか、何人もの人と協力していくしか今の社会に通用するものは作れないという結論に至ってしまった。

 

本を読むこともそうだが、実は色々なスキルを身につけるために勉強することはそんなに難しいことではない。

 

ある程度時間を費やしていけば知識量はどんどん増えてくるので、アウトプットすることは可能だ。

 

しかし本当に社会が求めているのはその先にあるのだ。

 

社会が求めていること、それはつまりビジネスとして成り立つかどうかということだ。

 

利益を求めないスキルの勉強ならそれは趣味の延長でしかない。

 

ただ自己啓発本を読むということに至った思考の源は、結局ビジネスに役立てたいと言う思考からだ。

 

増えた知識を正確に他者に伝えることができるならば、それはプログラミングなどの学習サイトを制作することができるだろう。

 

しかしそれも知識を勉強しただけでは作り上げることはできず、その後にその知識を利用するサービスを作らなければいけない。

 

それにはやはり膨大な時間と能力を要し、多少の資金も必要になってくる。

 

さらに作り上げたサービス、もしくはビジネスを継続していく努力を怠ってはならない。

 

話は自己啓発本から始まったが、 スキルを身につけるための実用書であれども、ただインプットしているだけにしか過ぎない。

 

もちろんそこには精神的な付随要素も存在するが、精神論もそれだけでは成果物にはなり得ないのだ。

 

あくまでインプットされた知識も精神論も実行していくためのツールにしか過ぎない。

 

確かに知識は実行をしていくために必要不可欠だろう。

精神論はそれを継続して行くためには必要不可欠だろう。

しかしいくら武器が揃っていても自分が何がしたいのか明確になっていなければ宝の持ち腐れと一緒である。

 

これはプログラミングを勉強している時に得た考え方だが、結局何を成したいのが決まっていなければ、何を勉強していいのかが決まってこない。

そして何を成したいのかを決定付けているのは自分の思考と知識と精神であり、

どれを欠いてしまってもいけない。

 

知識と精神はインプットできるのだが、結局何を成して行くかはアウトプットでしかないので、一連の工程の延長線上にはないし、そこには大きな隔たりがある。

 

月並みなことを言ってしまうようだが、いくら自分の中に知識や考え方精神のを溜め込んだとしても勉強をすることが得意な人間ほどなかなかアウトプットができない。

インプットしたものをそのまま何らかのツールを使って多くの人にアウトプットできたとしても、それは本当に何かを作り上げたということにはならない。

全く新しい価値の提供にはなり得ないのである。

 

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