教育勅語

※これから書く内容は完全に個人的意見です。

誰かを擁護する目的や批難する目的はありません。

また、勉強不足で全ての立場の方たちに配慮できない点もあろうかと思いますがご容赦下さい。

 

最近、幼稚園児に教育勅語を暗唱させているある学園がよく取り挙げられている。

教育勅語の現代語訳を読んでみると流石に良いことが書いてある。

簡単に要約してみると、『日本は代々皇室を中心として、国民全員が善い行いをし、皆仲良く互いに思いやりながらやってきました。教育の目的も、これまでの良い部分を踏襲していくのが良いと思います。そして、日本のため、皇室のために最善を尽くしなさい。それは自分たちの先祖の功績を称えることにもつながります。これは時間や場所は問わず、明白の理です。皆で一緒に頑張りましょう。』

多少、現代の考え方に合わない表現も見受けられるが、基本的には『大衆の利益になるような人物になりましょう。』ということで、決して悪いことなど一つも感じられない。

ただ、思想の自由ということ考えると、やや引っ掛かる部分もある。

それは、皇室を自分たちと同じ人間と捉えるか、神と同じ存在と捉えるかの違いである。

同じ人間と捉えた場合には、なぜ同等の権利を持つ人間のために自分を犠牲にしなくてはいけないのかということ。

しかし、過去の日本に於いて人々は皇室を自分たちとは住む世界の異なる存在。

まさに神として捉えていた。

更に付け加えれば、そのころの日本人にとって神とは自然の中に存在するもの、無償で自分たちを守ってくれるものであった。

自分と同等の人から発せられる言葉と、神から発せられる言葉では捉え方も180度違ってくるだろう。

神のために尽くすことは言い換えれば、自分のために尽くすことだったのだと思う。

また、過去の日本人は、現代の日本人よりも世のため人のために物事を考える人が多かったのではなかろうか。

現在の日本は、欧米の文化や思想の影響からか個人の権利を第一に主張する傾向が強くなった。

そのこと自体は悪いことではないのだが、度が過ぎると他人の権利までも侵害するようになってしまう。

もちろん自身の権利が侵害されるようなことがあれば断固戦わなくてはならないが、結果誰かが犠牲になってしまうことは避けたい。

その境界線が利己主義に偏り過ぎてしまってはいないだろうか。

自らを尊重し過ぎる傾向に警鐘を鳴らしたい。

確かにそんな現代の日本にいきなり教育勅語の文言を持ってきたら違和感を覚えてしまうのは否めない。

しかしながら、全面的に否定してしまうのもいかがなものか。

某学園の行動には不可解な部分も多々見受けられることは事実だが、なにも教育勅語自体が悪く扱われることはないのだ。

問題点のすり替えなどしないで、罰するべきことは罰するべきである。

ただ、この機会に教育勅語を通して見えてきたものは真摯に受け止め、今の自分たちの立ち位置もしっかり見直してみてもいいのかもしれない。

結局、自分だけが得をしようと努力しても、全体が満たされていなければいずれ自分自身も破綻していく。

少なくとも、自分の手の届く範囲の人々の幸せも願えないようではその先はない。

それが、家族という最小のコミュニティなのか、もう少し拡大した国家というコミュニティなのかは人それぞれだろうが・・・。

 

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